巻頭言
時 の 風
フロイント産業(株) 伏島 靖豊

 昭和三十九年、1964年は、オリンピックが東京で開催され、東海道新幹線が営業を開始し、そして当社を創業した年であった。医薬品の総生産高は、未だ4,000億内外であったが、製剤技術・製剤機械の黎明期であったと思う。
 当社は世界に先駆けて、自動フィルム コーティング装置FM型と胃溶・腸溶性フィルム コーティング液を開発し、ベンチャー企業として起業した。
往時を回顧し、述べてみたい。
 フィルム コーティングは、米国のAbbott社で産声を上げ実用化され、“Filmtab”と呼称されていた。しかしFilmtabは、コーティング効率が高いとされていたエアレスガンを用いた。そして糖衣を模して皮膜を厚くし、PEG・Waxの含有量が多い液をスプレーするため、決して強靭で美麗なコート錠とは言えなかった。二三の日本の製薬メーカーが、Abbott社からFilmtabを技術導入したものの、高温多湿の日本ではWax含有量が高い液処方により、コート錠の皮膜が溶融してビンに付着し、上市したFilmtabは無慚にも失敗に終っていた。

 一世紀に亘り汎用されてきた糖衣錠に代わる、フィルム コート錠のコンセプトは、非水の有機溶媒を用い・高分子物質を溶解し・薄くて強靭なフィルムを形成し・水を用いないため主薬の力価と失活もなく・光から主薬を保護し・Alレーキ色素で着色も自由・胃溶、腸溶性のコート錠も造れ・糖衣コーティングの経験と勘は不要・しかも自動で、コーティング時間は糖衣コーティングの十分の一、等々もり沢山の良いこと尽くめを謳った。

 しかし、製薬メーカーを訪れると「素錠に着色したみたいや」「糖衣錠のような艶がないね」「患者は剤形の違いに敏感で、変更は無理だね」等々の声を耳にし一抹の不安を覚え、焦燥に駆られたことが未だに脳裏を掠めている。
そんなある時、あるメーカーの役員が「日本の薬品メーカー発祥の起源は、薬種商が多く、明治以降ヨーロッパから主薬バルクを輸入してきた、従ってどこも主薬バルクが同じだから、高温多湿に耐え見栄えで商品価値を高める技術を競って来た歴史があるのだよ」と言われた。この一言を、目から鱗が落ちる思いで聞き、何とかそれを打破してみようと、ファイトが湧いた。
また、大手製薬メーカーの若手研究員が、フィルム コーティングに大きな関心を寄せられたのも心強かった。そしてフィルム コート錠は糖衣錠の欠点を補う数々の優位性があり、必ずや糖衣錠に代わる剤形になるとの確信が徐々に膨らんでいった。

不安と確信が交錯していた1966年、英国・米国から引き合いが舞い込んで来た。フィルム コーティング機FM型は、欧米で主流のエアレス・スプレー方式でなく二流体スプレー方式を採用し、液処方にPEG・Waxを多用せずに文字通り薄くて強靭なフィルム皮膜の形成を可能にした。さらにコーティング パンは、攪拌効果を上げるバッフルと一体成型できるFRP製とした。この頃、既に欧米の医薬品メーカーは、艶とか肌の荒れは度外視し、生産効率と皮膜強度、溶解性を重視していた。FM型は欧米に四十数台輸出され、国内は二百数台納入されるヒット製品と成った。

後日談だが、後に通気乾燥式のコーティング装置「ハイコーター」の開発により、乾燥効率が飛躍的に向上した。フィルム コーティングは草創期に非水の有機溶媒を用いることを謳い文句にしたが、「ハイコーター」による大幅な乾燥効率の向上により、水系フィルム コーティングを可能にした。水系コーティングの誕生で、当社化成品部の売上の70%を占めていたフィルム コーティング液は漸減し、そしてゼロになった。正に自縄自縛で、技術革新の進歩は予期せぬ事象を投影するものである。

当社は、フィルム コーティング機械と液の開発で創業したが、時期を同じに、フィルム コーティング基剤HPMC・CAP・MPM・AEA、そして結合剤HPC・PVP、賦形剤Avicel,崩壊剤CMC−Ca、着色剤Alレーキ色素、等々が百花繚乱し上市され、時の風を起こしてくれた。機械と液の販売は、これらの新しく開発された添加剤の余光に浴し、軌道に乗り加速することができた。
そして、新剤形としてのフィルム コート錠は、医薬品業界で認知され確固たる地位を得た。ベンチャー企業として、時の風を掴みながら,順風満帆に船出することができ、そして当社の今日があると思う。
 近年、経済界でベンチャー企業の台頭が叫ばれて久しいが、その成否は、いかに時の風を巧みに掴むかに係っていると思量する昨今である。